竹迫氏のルーツについて
極楽カリー、店主は竹迫という苗字です。たけさこと読みます。あまり一般的ではない苗字ですので、そのル―ツを調べてみました。ちなみに画像は鹿児島県にある竹迫集落(私のルーツでもあります)の、竹迫権現神社という小さなお社です。
『鹿児島県の竹迫姓のルーツについて』
天照太御神の孫である天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高千穂を降り、吾多(アタ)の長屋の笠沙の崎(一説では、鹿児島県の南薩摩西域一帯)で木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)を妻とし海幸彦(火照命ホデリ)、山幸彦(火遠理命:ホオリ)を産む。出産の際に竹刀で臍の緒を切り、捨てた竹刀はのちに竹林になり、その場所が「竹屋」と呼ばれるようになったと日本書紀に記載されている。また、薩摩の国の閼駝(アタ)の郡の竹屋の村にうつり給うて、土地の人竹屋守の娘を召してその腹に二人の男子をおもうけになったとき、その所の竹を刀に作って臍の緒を切り給うた。その竹は今もある、と薩摩国風土記に記されている。
鹿児島県南九州市知覧町南別府竹迫(タケサコ)集落。薩摩半島南西部の海に面した小さな漁村竹迫は枕崎と開聞岳を結ぶ線の中間に位置する。竹迫と表記され、タケサコと標準語読みされはじめたのは昭和に入ってからであり、それ以前の古来の名称は「竹屋様」(読み:タケヤサァ)であった。2014年現在でも竹迫はタケンサマとも呼ばれている。竹迫集落の氏神は竹迫権現神社、地元の呼び方は竹屋様権現(タケヤサァゴンゲン)である。この権現神社では瀬織津姫(セオリツヒメ)、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)、八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)を祀る。知覧町一帯で豊玉姫神社を筆頭に、山幸彦の妻である豊玉姫(トヨタマヒメ)を祀る神社が多い点、さらには大宜都比売神と伊勢神宮外宮の豊受大神(トヨウケノオオカミ)、そして豊玉姫を同体とみる説を考慮すると、竹迫権現神社の祭神も豊玉姫であった可能性がある。竹迫集落では権現様は「世の中で一番出世された神様」と伝えられている。集落近くには湧水があり、そこからの流れは神の子(カンノコ)川と呼ばれている。また別に竹迫川(タケヤサアカワ)が流れているが、その上流には小倉山(ウグレヤマ)という古墳がある。
系図を元に非常に大雑把な推測をすると、瓊瓊杵尊は竹迫集落とのちに呼ばれるようになる地で妻である木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と出会い、山幸彦・海幸彦を産み、山幸彦は妻である豊玉姫(トヨタマヒメ)との間に鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)を産む。余談になるが、鹿児島には神武天皇以前の神代三代(瓊瓊杵尊、山幸彦、鵜草葺不合命)の墓と伝えられる可愛山陵、高屋山上陵、吾平山上陵があり、神話の世界に登場する地名が2600年を経た今も残る稀有な土地である。
個人の名として竹迫が記録に出てくるのは、1535年に島津家家老の川上昌久の後を追って殉死した5名のうちのひとりが、竹迫介右衛門と記されている。ただし、この介右衛門が竹迫集落の出身であったかは、定かではない。
竹迫という地名は鹿児島のほか、熊本県合志市竹迫(読み:タカバ)、島根県浜田市竹迫町がある。また宮城県石巻市三輪田竹ノ迫、大分県日田市大山町西大山竹の迫がある。迫は山間の小さな谷、または狭間を意味する地名であり、岡山以西の中国地方や九州に見られる地形を示す言葉である。
この仮説レポートをすべての竹迫姓の方に捧げます。
参考文献 『日本書紀』 飯野布志夫著『知覧むかしむかし』高城書房、鹿児島士人名抄録』高城書房
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