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神さま仏さま

神さま仏さまのこと

ボリビアから帰国するとすぐ、休学していた大学院に復帰するか、それとももう一年休学して就職活動をするかの選択に迫られた。もうこれ以上モラトリアムを先延ばしにできない状況で後者を選んだ。ボリビアから実家の鹿児島に強制送還。当時は就職氷河期。僕は20代も後半を超え、就職説明会で説明をする社員の方が自分より若い人だったり、そもそも何をやりたいのか分からなくなっていたので、1年近く引きこもりに近い状況に陥った。何社か受けたがもちろん、落ちた。そんなある日、ボリビアで参加させていただいていた楽団が来日公演で東京に来ることを知り、いてもたってもいられなくなり実家に黙って鹿児島から東京に飛行機で出てきてしまった。彼らのコンサートを聴き、やはり南米はじめ海外のモノ・コトと関わった仕事でなければ続かないと再確認し、当時隆盛期にあった「エスニック」業界の会社でなんとか働けないか、と必死になった。社員や正規雇用ではないが物流倉庫業務のアルバイトを募集している会社があり履歴書と自分がしてみたい仕事を別紙に書いて送った。面接の連絡が来た。筑波大学の図書館に案内してほしい、という不思議な条件がついて。
慣れないネクタイを締めスーツを着て、指定された横浜中華街のあるお店の前にいるとモコモコのダウンジャケットを着た小柄な60歳過ぎの帽子をかぶった男性が、じゃ、行こうか、車に乗ってと言った。僕が6年近くお世話になることになる民芸品輸入販売のアミナコレクションの創業者進藤社長(当時)だった。初対面で社長の車に乗り、彼が運転しながら僕が学生時代を過ごした茨城県つくば市に向かった。社長じきじきに運転する車の中で二人っきり。いつ面接が始まるのかな、と緊張していると、僕に対して身体は丈夫か、両親は元気か、語学はできるか、としか質問せず、あとはひたすら自分のことを話している。進藤社長は当時進めていた横浜中華街に建設する媽祖廟の話を僕に熱く語っている。つくばに行くのも大学の図書館に媽祖研究の古い文献があるから、それを僕が代理で借りてほしい、という理由、さらにつくばのショッピングモールに彼の会社が運営するお店の新規出店の話があり現場を見てみたいという理由からだった。進藤社長は偶然、僕の大学の学部さらには細分化された民俗学・民族学の研究室の40年以上前の先輩だった。履歴書と手紙を見た人事の方が扱いに困り上司に相談したら、なぜかアルバイト面接が突然社長面接になったのだ。無事、図書館で本を借り、出店候補地の視察が終わりそのショッピングモールの担当者と社長そして僕の3人で昼ごはんを食べようということになり、中華料理屋に入った。モールの担当者は最初スーツを着た僕を社長の部下と思っていたがどうも様子が違うので進藤社長に「この人は誰なんですか?」と聞くと、「うちの会社に入りたいと言ってきたもので今面接中なんだよ」と社長が答える。担当者の方が、気を利かせてくれて「で、社長どうなんですか、面接結果は?」と聞いてくれた。少し間があり「うん、採用」。こうして僕のサラリーマン生活そして、進藤社長(会社内ではBOSSと呼ばれていた)のかばん持ちのような生活が始まった。
 すぐに休学していた大学院に退学届をだし、横浜の叔父のうちに居候させてもらい新生活がはじまった。入社日は1月1日元日、最初は中華街のお店に立ち販売の研修からスタート。元旦前日、大晦日。関帝廟に今日からこの横浜中華街で働かさせていただきますとごあいさつし、仕事がはじまった。1ヶ月も立たないうちに中米グアテマラに仕入の出張に飛ばされた。社長の娘さんがスペイン語に堪能だったので、彼女についてあちこち仕入の出張に出かけた。グアテマラ、メキシコ、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ。それらの国に1年に1、2度出かけ、さらにケニアやタンザニアにも民芸品の買付にでかけたりもした。仕入の仕事から広報宣伝の仕事に異動し海外出張は減ったのだが、代わりに進藤社長の新しい仕事のサポートで国内出張が増えた。それが「日本の神社百選」プロジェクトだった。日本中の神社から百社以上をピックアップし全て現地に行って取材して一冊の本を社長が執筆する企画だった。リスト作り、神社への取材依頼、事前資料の準備、出張の宿泊手配やレンタカーの運転、さらに時にはカメラマンとして撮影まで任された。まがりなりにも民俗学や人類学をかじり多少は民俗学的調査を経験したことがあったからこなせた仕事だった。今振り返ると、本業の民芸品販売とはかけ離れているため、きっと別の社員から僕は何の仕事をしているんだろうと相当怪しまれていただろう。僕自身が神社に強く興味があったわけでなかったが、ユニークかつ強引な進藤社長の指示で神社や神話、神道やアミ二ズム、さらには「トンデモ」な精神世界いわゆるスピリチュアルと呼ばれるジャンルの情報をかたっぱしから集め、脳みそに吸収していった。30社近くを社長やその奥様と廻っただろうか。一番ハードだったのは白山神社取材で、白山に登頂した時だった。70歳を迎えていた社長と僕二人だけで白山に昇り、無事頂上に着いたのだが、下山時にトラブルが起きた。社長の両足がつってしまい、足が動かなくなってしまったのだ。サポーターを巻いて、社長の荷物を全部自分が背負い、彼の肩をささえながら、通常の倍近い時間をかけて何とか下山できた。湯殿山神社の取材では月山に昇ろうとしたら突然吹雪いてきて、登拝を断念したこともある。4月はじめの玉置神社に向かう途中、やはり雪が降ってきて奈良吉野の細い山道をこわごわ運転して雪の積もった極寒の玉置神社を取材したりもした。進藤社長が信心深かったかは今も分からないが、3年以上かけて全てのリストの神社を取材し、一冊の本にまとめられ出版されたのは、日本の神様が応援してくださったからだろうと思う。サラリーマン時代に本当にお世話になった進藤社長は極楽開店の際真っ先に来て下さり、滅多に褒めない人なのに、良い店だな、とポツリとおっしゃってくれた。先年お亡くなりにになったのだが訃報を聞いてしばらくして、彼が夢に出てこられ、ニコッと笑って黙って手を上げさようならのポーズをして消えた。数えると逝去されてから49日近くの事だった。破茶滅茶で豪快な人だったが、非常に繊細で時間や約束に厳しく、夢で挨拶された時もなんて律儀な人なんだ、と悲しみより可笑しみが湧いてしまった。実の父親並みに濃厚な時間を共に過ごし学ぶ所多大な偉大な恩人かつ稀に見る「変わり者」だった。BOSSありがとうございます。いつか本当の極楽で再会しましょう。
2014年から2018年1月現在まで、今鎌倉で店の外観内観に諸仏観音様の絵を描きまくった極楽というカレー屋をやっているわけなのだが、最初から、お寺さんや仏様に興味があったわけではない。手塚治虫が何かの漫画でうまく描いていたが、日本古来の神を外来の「仏教」が追い出しているようなシーンが頭にあり、お釈迦様や観音様に対し深く知ろうという興味は強くは感じなかった。極楽、という名前も鎌倉なら合うかも、とピンときたから付けただけで、仏様の教えに傾倒していたからではなかった。が、鎌倉にいると、次第に仏様観音様が身近に感じられるようになってきた。開店当初から2年間、本当に店の経営が苦しくてつらく、家でも弱い心を妻に依存するようなメンタルになってしまい、ギクシャクした状況が続いた。お金も全然ないから遊びに出かけたりするもの罪悪感があり、結果、休日は鎌倉や北鎌倉をプラプラと歩き、イライラくよくよした心持ちで神社やお寺さんめぐりをすることが多くなる。頭を下げ、手を合わせる。居心地が良い好みの場所でぼーっとする。そのうち仏像をじっと見るようになった。同じ仏像なのに、見るたびに表情は異なる。怒ってるように見えるときもあれば、優しいお顔のときもある。眺めていると、自分の感情に変化が起きるのが分かる。苦しいとき、優しいお顔を見ているとこころなしか救われている気がしてきた。閉店の間際まで経営状態が悪化していて、精神面も追い詰められていたから、無意識にすがっていたのかもしれない。神社では人界のこと我関せずという厳かな雰囲気しか感じなかったが、仏様観音様はとっても人間臭い気がしてきたのだ。慈悲、救い、抜苦与楽、今生は苦しいから来世は極楽を。生々しい人間の気持ちや心の叫びを黙って聞いている仏様たちに親しみが湧いてきた。仏教の詳しい教えのことはまるで分らない。が、誰をも決して見捨てず救うとされる観音様の気持ちが、ギリギリのメンタルには素直に有難かった。妻の父が絵を描くのだが、ちょうどモチーフとして仏画を描きはじめた時期で、それに触発されて、自分でも仏画を描いてみたくなり、いざはじめると、ひとときでも店の事を忘れられ無心になれた。お客様が来店されることも多くはなかったので時間だけはあった。それで店に仏画を描いてみようと思い、狂ったように外壁や内壁に描いた。モチーフはお参りした鎌倉の有名なお寺にまつられている神様や仏様たち。落書きのような日記にもへたくそながら数をこなそうと思い、キャラ化した大仏さんや観音様を描きまくった。スパイスを扱っているので、薬師仏さんにも愛着を抱くようになった。
いろんな仏様がいるが、特に観音様が好きだ。先にも述べたが、何が何でも救う、という姿勢。まるで親、とくに母親のよう。菩薩は母薩でもあるのだろう。店がテレビに取り上げられ、なんとか倒産がまぬがれたころ、とある占い師さんのところに行き聞いてみたことがある。鎌倉のあちこちにお参りしているのだが、どの神様あるいは仏様に特に手を合わせるべきか、と。意外な答えがかえってきた。鎌倉ではなく、サラリーマンをはじめるにあたりお参りした関帝廟にいる観音様、だという。関帝廟は三国志の英雄で商売の神様とされている関羽を祭る廟で、観音様なんていただろうか。湧いた疑問を確かめるべく、ひさびさに関帝廟に行くと、確かに観音様がおまつりされていた。おどろきつつも手を合わせ、廟を後にし近くの台湾料理屋にご飯を食べに入ると、さらに驚くことが起きた。入店した瞬間、入り口にあるラジオのスピーカーから「コンドルが飛んでいく」のメロディーが流れてきたのだ。中華料理屋で普通はBGMとして流れているはずのない、学生時代からの馴染みの音楽。僕は霊的な感覚は全く持ち合わせておらず見もしないし感じもしないが観音様から数年かかってようやく気付いて戻ってきたのね、と言われその喜びをラジオから表現したように思われ、この出来事があってから、観音様や神様はいるかもしれないに思えるようになった。
極楽カリーで自家製の果実酒をつくっているのだがその保存瓶を洗っている最中のこと。熱湯で洗うと割れるから必ず水で洗うこと、という注意書きを見ずに僕は熱湯を保存瓶に詰めしっかり蓋をして、あろうことか顔のあたりまで瓶を持ち上げ中をゆすぐためにはげしく数回振った。バンッと音を立てて爆発し瓶は粉々に砕け、ガラスの破片が周囲に飛び散った。先が尖り、持っただけでも切れそうなガラス片が散乱している。が、僕の顔、喉腕はじめどこにも、ひとつもガラス片は刺さらず、まるで誰かが守ってくれたかのようにうまく僕をよけてガラスは飛び散っていた。観音様なのかご先祖様なのか単なる偶然なのかわからない。我に戻った僕は、無傷なのが分かると涙が溢れて思わず手を合わせた。